ファッション情報

【会員紹介】伝統校がこだわる「ファッション」と「人」の教育-"愛知文化服装専門学校"

服飾系の学校として、愛知県で一番の歴史を誇る「愛知文化服装専門学校」。戦前から、ファッション界の人材育成をけん引してきた伝統校だ。創立75周年を経て、今も変わらず受け継がれる、ファッションを学ぶ者への温かい眼差しと情熱。学校長の八木和久様に、それらがどのように培われ、生かされてきたかお話を伺った。

八木校長
愛知文化服装専門学校
八木和久 学校長 

学校名「愛知」のルーツ
1936年(昭和11年)5月8日、名古屋市瑞穂区に"限りない愛"と"豊かな知性"の教育方針を掲げ、「愛知文化服装専門学校」の前身、「愛知洋裁学校」が誕生した。創業者は八木学校長の母、美意子氏である。

高等女学校で和裁を学び、師範を修めて卒業した年、母校の教員として迎えられたが、当時の美意子氏が感じていたのは洋裁への強い可能性だった。そこで十ヶ月で退職を申し入れ、その年の4月からの2年間、美意子氏は東京へ行き、昼間は洋裁、夜は帽子製作を学んだ。そして名古屋に戻ったその年に、学校を設立したのである。

 「これからは女性も職業に就くべき」と自宅の2階で美意子氏は教育に打ち込んだ。そんな当時の様子を、八木学校長は「食事は立って食べるだけ、休むのは寝る時だけだったとも思えるほど、母は教育に熱心でした。」と振り返る。当時の卒業生からは現在も年賀状が届き、長きにわたり洋装店を続けている人や、母・子・孫の三代で通う家庭もあるという。

このように八木学校長から語られる数々のエピソードからは、ファッション教育の先駆者としての誇りが感じられる。ファッションに関わる仕事を通し、人々の豊かな人生を願ってスタートした初代の心は、今もいきいきと受け継がれている。

コース分けせず「全てを学ぶ」こだわり
愛知文化服装専門学校(以降「愛知文化」)は、東京の文化服装学院の連鎖校として、本校と連携し、本物志向の教育を行っている。また数多の学校が、様々なコース分けをして学生を学ばせる中、愛知文化では、新入生全員をまず「アパレル科」に入学させる。そこで「素材」から「縫製」「ビジネス」「服装史」に至るまで、服装に関する知識全般を習得させるのだ。

111226_教務風景.jpg「企業に入れば自分の専門分野だけを分かっていればいいわけではない。デザイナーやパタンナーも、ビジネスや服装史の勉強は必要。ましてや素材や縫製を知らなくては話にならない。」と八木学校長。当然、学生たちのこなす授業や課題は多く、学生生活は相当ハードなものとなる。

それでも授業を休まず、学生たちがカリキュラムをこなしていけるのはなぜだろうか?それは、教師陣による初代校長から受け継がれた熱心な指導に加え、コンテストや課題に果敢に挑戦する先輩たちの姿に触れ、感化されていくからだ。目標になる人が常に身近にいる幸せは「伝統」と並び、愛知文化の大きな財産だといえる。

このように恵まれた環境でファッションを学び、社会に出た愛知文化の出身者は、責任を持たされるようになる頃から、メキメキ力を発揮していくのだという。

111222_実習風景.jpg大切な「人間力」教育
現在、愛知文化の卒業生は、企業のトップから、現場になくてはならない技術者、大学の先生に至るまで、社会の様々な場で活躍している。それはルーツに根ざした人間教育によるものが大きい。基本はまず「挨拶」。「挨拶ができないのは、自分が充実した日々を過ごせていなかったり、真剣に生きていない証拠なんです。今を前向きに生きている方は自然に挨拶ができるもの。」と八木学校長。

加えて学生に伝えてきたのは、「明るく」「楽しく」のふたつ。学ぶためには、学校に来るのが「楽しい」ことが一番。頭ごなしには叱らず、ほめて学生の良さを引き出してきた。八木学校長は、常に生徒一人一人の顔と名前を把握し、積極的に関わる。学生たちも「見守られている」という安心感のもと、純粋に勉強、課題の制作に打ち込み、自信と人間力を高めている。そうした結果のひとつに、ファッションデザイナーの登竜門「装苑賞」における、7年連続一次審査通過者14名を輩出という快挙がある。

フィナーレ
ファッションショーのフィナーレ

目下の課題は、学生たちの「アピール力」を高める事。高い知識と技量という愛知文化の強みに加え、これからの時代に不可欠な力を強化する。学生たちが、厳しさを増す就職戦線を勝ち抜くためだ。社会や企業で求められる骨太な人材が、今後も愛知文化から数多く輩出されることを期待したい。




 


【愛知文化服装専門学校ホームページ】
http://www.aichi-bunka.ac.jp/index.html